詰将棋雑談(10) 「幻影」と「看寿頌」の同時発表

ちょっと長いのだが巨椋鴻之介「禁じられた遊び」から引用する。
「看寿頌」の解説からである。

まず私の作は、遅くも昭和33年のうちにほぼ今の形に達していたのだが、図巧1番の影響が濃厚すぎる(だから後年「看寿頌」などとフザケた名をつけた)のと後半急に力が抜けたようになる点が気に入らず、そのまま眠り続けていたものである。
二十年後の昭和52年、私は森田正司氏のガリ版誌「詰研会報」で参考図(略「幻影」)を見て驚いた。……(中略)……この基本構造は、飛打が上からか手前からといった差異を越えて、拙作(註「看寿頌」)のものと同一である。

私は山田氏に手紙を書いた。御返事を要約しよう。
「幻影」の発想は旧パラの頃に遡るが、それを今日まで発表しなかったのには、意に満たぬ点があるというほかに理由がある。それは、昭和30年代に北原義治氏との交遊の中でその構想を洩らしたところ、巨椋に同じプロットの作があると聞いてしまったことだ。巨椋の発表を予想した山田氏は、完成していなかった「幻影」の作図を見送られた。
「ところが、ちょうどその頃あなたは詰将棋界から消息を絶たれました。あなたに発表の意思がないのならと私は私の方(註「幻影」)を一応まとめました。ところがその頃あなたがカムバックされた。そこで私はあなたが発表される可能性を考え私の分をオクラにした。その後またあなたの作品が誌上から姿を消した。いっこうに発表の気配もない。たまたま私の方に作品集の話が持ち上がり、古い作品の整理をせまられる段階に来たので、これを持出したのがお目に止まったようです。
北原君から話を聞かねばとうにこの作は陽の目を見たと思います。早い者勝ちという詰棋の世界ではあっても、抜け駆けのようなことだけはしたくないと思ってましたが、他方では《あなたが発表されぬなら…》という自作への未練も多少ありました。結局、時が解決してくれると考え永年オクラにしていたというのが、この作に関する哀話です。」
噂に聞くだけの他人の作が繊細な心にどんな波紋を起こすかを物語る、すばらしいお手紙だった。私は心をこめた返書を書き、その棋会に、将来専門誌に出すときは同時発表にすることが決まった。

この2作は森田正司の「詰棋めいと」創刊号に発表された。

「詰将棋雑談(10) 「幻影」と「看寿頌」の同時発表」への2件のフィードバック

  1. 「詰物語」に「新世界」が収録されていない。おそらく修正する気もなくなったのでしょう。この事実を確認するたびに心が痛みます。なんとかならなかったものか。

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