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ヒトのみる夢はなぜ非論理的なのか

おいらは次のように考えています。

  • 夢自体は画像や音やにおいなどの記憶をランダムに再現しているだけのもの。
  • 目を覚ました瞬間に、そのでたらめないくつかの記憶を強引に連続的につなぎ合わせて理解しようとする。
  • でも、無理があるからとてつもない流れになってしまう。

なにか参考図書を読んだわけではないので、全然見当違いかもしれませんが。

何がいいたのかというと、「人は物語を必要とする」ということです。

わからないということが不安なんですね。
そこで自分なりに理解して安心するために物語をほしがるわけです。

雷を神話で理解するのも、科学知識で理解するのも本質的にはさほど変わりません。

横道にそれました。話を戻しましょう。

詰将棋の初形が与えられたとき、それをコンピュータが解くときに「物語」は必要ありません。(たぶん今の所)
そこで導かれる作意手順はすべて絶対的な手順であり、他に変化の余地はありません。なぜなら、それが作意手順だからです。

人が詰将棋を解く場合、もしくは鑑賞する場合はそうではありません。

「配置から推理してこの角をここに捨てていく形じゃないかなぁ」
「でも、その為にはこの歩が邪魔だなぁ」
「あぁ、それでここで銀1枚使って、この歩を王さんに取らせておくわけか」
「なるほど、邪魔駒消去か、うまいなぁ」

この「邪魔駒消去」というのが、人が作った物語です。
すべての「~手筋」は作意から人が読み取る物語なのです。

作者が伝えたいのはこの「物語」なのです。
しかし作者の「物語」と解答者・鑑賞者の受け取る「物語」が一致するとは限りません。

優れた作品は素晴らしい「物語」をしっかり解答者・鑑賞者届けます。

詰将棋鑑賞入門(2)

2詰将棋は芸術かパズルか

詰将棋は芸術なのか、ただのパズルなのかという議論がある。近い議論として、「創作か作図か」「作品か問題か」というのもある。

当然ながら「芸術」と「パズル」は同一ベクトル上にあるわけではないので、これは閾値に関する議論ではない。要するに「詰将棋は芸術でもありパズルでもある」という解だって存在するということだ。しかし、本日はその議論に無防備に乗ってしまうつもりなのである。

それにしても「詰将棋は芸術かパズルか」という二者択一のごとき式の立て方では無茶すぎるので、命題を二つに分けよう。
すなわち「詰将棋は芸術か」と「詰将棋はパズルか」である。

まずは「詰将棋は芸術か」という命題について考えよう。
辞書を引くと

芸術
(1)学芸と技術。
(2)鑑賞の対象となるものを人為的に想像する技術。空間芸術(建築・工芸・絵画)、時間芸術(音楽・文芸)、総合芸術(オペラ・舞踏・演劇・映画)など。
(3)高等学校における教育課程の一つ。
(日本国語大辞典)

いままさに詰将棋を鑑賞の対象として論じているのだから、どうもこの(2)に当てはまりそうだ。例示されている中にはないが、「など」とあるから問題はない。

つまり、普段我々が遊んでいる「詰将棋」という行為は芸術と読んで差し支えないようだ。

では次に「詰将棋はパズルか」という命題に進もう。

我々はよく詰将棋と将棋の違いも曖昧な方に説明するために、「将棋はゲーム。詰将棋はパズルです」と言う。
当然、詰将棋はパズルだろうと思い込んでいる人が大多数だろう。

だが、改めて正面からこの命題に向き合ってみると一つの疑問が湧いてくる。

パズルというのはルールが明快でないと解けないのではないか?

詰将棋のルールは、400年の歴史がありながら、いまだに確定されていない現状だ。

こう書くと驚かれる方もいるだろう。
もちろん基本的なルールは揺るぎなく決まっている。
詰将棋の本やwebサイトに「詰将棋のルール」は多少の表現は異なるが、それは表面的なこと。

問題は「無駄合」という概念にある。
「玉方最長応手」と「無駄合」は本来矛盾するので、すっきりしたルールを作ることが不可能なのだ。

詰将棋はパズルと考えて新しく参入する人は、古典作品と現代作品がルールが異なるにもかかわらず、同じ土俵で論じられていたりすることに戸惑うのではないだろうか。

つまり極論すれば、
詰将棋はパズルではない。

筆者はこう考えている。

詰将棋は心ならずも芸術作品

パズルに憧れ、でもパズルにはなりきれなかった芸術作品なのだ。

だから詰将棋を鑑賞する時は、作者が何を表現したかったのか、何を鑑賞して貰いたかったのを最重視する。
移ろいゆくルールに忠実かどうかなどは二の次である。

詰将棋鑑賞入門(1)

詰将棋で遊ぶようになって例えば詰将棋パラダイスに解答を出すようになると、解いた作品に評価をつける。
気に入った作品には「感動したA」、ふーん詰んだなという作品には「王手王手で詰んだB」、なんだこれという作品には「時間の無駄だったC」などと短評とABC評価をつける。

しかし中には、何を書いたらよいのか、どうやってABCを決めたらよいのか皆目分からないという方もいらっしゃるだろう。

そこでちょっと書いてみようかと思ったのが運の尽き。なかなか手強いテーマで四苦八苦。
しかし、とりあえず一つの叩き台にはなるだろうから公開することにした。

はじめに断るのは責任回避臭くて嫌だが、それでも初心者の為に断っておかねばなるまい。
これはあくまで風みどり個人の考え方であって、絶対のものではない。本当に人それぞれ様々な考え方があるし、だからこそ面白い。

1 作意変化紛れ

枻将棋讃歌という雑誌だっただろうか、詰将棋界の重鎮らがいろいろ語り合うという企画があって、その中で「1手詰は詰将棋か」という命題が取り上げられていた。
そこで(たぶん)岡田敏さんが「詰将棋は作意・変化・紛れがそろってないとあかん。1手詰は変化がないから詰将棋ではない」という趣旨の発言をしていた。
それ以来、詰将棋の3大要素として作意・変化・紛れがあるということを心に刻み込んだ。

詰将棋を創り始めて、または解き始めて、最初に意識するのはもちろん作意だ。

ここで「作意」という言葉を辞書で引いてみると、次のように記載されている。

(1)意志。たくらみ。
(2)芸術作品における作者の意図・趣向。
(3)機転。工夫。
(4)茶道で、創意工夫。作文。

以上である。

(5)詰将棋において、正解手順のベースとなる作者の意図した手順。

と、是非付け加えて欲しいものだ。

「作意」にはもともと「正解」という意味はないことを確認しておこう。詰将棋の「作意」は(2)の「芸術作品における作者の意図・趣向」という意味から派生したものと考えられる。

創るにしても解くにしても経験を積むにつれ、作意手順の巧緻だけでなく、その表現にも目が届くようになる。表現とは主に駒の配置である。同じ作意手順でも、いかにもでるぞでるぞといった大仰な配置の作品よりも、すっきりした配置から出現した方がずっと感動を与える。では駒数が少なければ少ない程、優れているかというと、必ずしもそうではないようだ。
駒数をそぎ落とすと面白い変化を消してしまうことになる場合がある。
変化は作意より短く詰めばよいというだけではない。変化にも好手順を盛り込めばより解答者は満足感を得られるわけだ。

そして紛れであるが、そもそも紛れとは何であろう。
単に指し手の選択肢が多ければ紛れが多い、難解な詰将棋すなわち高級な詰将棋ということなのだろうか。
否である。

余詰探しマニアでなければ読まないような攻方選択肢がいくらあっても、普通の解答者は読まないのだから意味がない。このような手には「検討用紛れ」という言葉もある。
では、解答者が迷う選択肢が多いほど優れた詰将棋なのだろうか。

この点についても、筆者は否と申し上げたい。

作意・変化・紛れとは手順についた呼び名である。
詰将棋は局面図で出題される。
局面図を点とすれば手順は点と点を結ぶ直線である。

このように認識すると、作意とは初形図から詰上がり図を結ぶ直線となる。

変化とは途中(初形)図から早詰に至る直線である。

では紛れとは、途中(初形)図から失敗図に至る直線である。

つまり紛れとは作者が想定した失敗図と1対1対応するものなのだ。

紛れも作者がどのように解答者を導こうとしているかという意図の表現なのである。

優れた紛れを持つ作品は、解答者に作者からのメッセージが伝わる。「この謎を解いてみよ」というメッセージである。

作者がなにをこの作品で主張したいか。
そしてそれが作意・変化・紛れでどのように表現されているか。
鑑賞とはそれを読みとり、作者の感性と自分の感性をすりあわせることである。