詰将棋雑談(51) 朝霧趣向の元祖

捨て追い趣向の1分野に「朝霧趣向」がある。
これも「煙詰」や「裸玉」同様に、もともとは伊藤看寿の作品につけられた愛称—すなわち固有名詞が一般名詞化したものである。

ところが大塚播州『漫陀楽』を繙いていたら次のような記述にぶつかった。

伊藤看寿『将棋図巧』第6番の解説より

最大限に朝霧手順を演じて見せる朝霧の決定版。朝霧の名でよく知られた作品。だが後発作品である。有名すぎるので、あえて注記しておきたい。

「朝霧」は伊藤看寿の図巧#6。ところがこの趣向の元祖は「朝霧」ではないという。
なんともややこしいことだ。

では誰の作品が朝霧趣向の元祖かというと久留島喜内の『将棋妙案』第16番だという。

久留島喜内『将棋妙案』第16番

大塚播州氏の解説を引用する。

朝霧趣向の元祖作品である。繰り返しが半端なのは彼の創作前期の作品であることを示唆しているようだ。

さらに第2号作品を次の作品であるとしている。

久留島喜内『将棋妙案』第41番

これは心躍る傑作だ。
右辺で折り返せるとは思いもよらなかったし、桂馬を打って捨てながら寄せる手順は楽しめる。

さて、この大塚播州氏の解説には疑問符を浮かべる方も多いのではなかろうか。

というのは現在江戸時代の古典詰将棋について学ぶ定番の教科書は門脇芳雄『続詰むや詰まざるや』であり、その第4章が三代宗看と看寿、久留島喜内は第5章なのだ。

第5章の扉裏を引用する。

享保時代から宝暦時代にかけて、三代宗看と看寿の登場で詰将棋は黄金時代を迎えたが、二人に刺激されてすばらしい作品が続々と誕生した。この天才兄弟と同時代に生きた作家たちの中で最も大きな存在は久留島喜内(義太)である。

この記述を読んでいた筆者は『無双』『図巧』に感動した久留島が詰将棋創作をはじめたものと思い込んでいた。さらにこんな記述もある。

「将棋妙案」は最初書名がなく「久留島喜内詰手百番」と呼ばれたが、幕末に榊原橘仙斎が「将棋妙案」と命名した。橘仙斎の「将棋営中日記」の一節に「素人にて百番作物を作り候者は余り無之由、至って六ヶ敷ものの由。 作物の最上は伊藤看寿なり。実に百番共凡人の及ばざる手段にて実に奇妙なりと云へり。素人にては享保の頃久留島喜内、近頃にては桑原君仲の両人が作物の名人の由。」という有名な箇所があり、「妙案」は享保年間(1716―1735)の作品集と思われていた。 ところが和算研究家と筆者(門脇芳雄氏)の研究で、「妙案」第七番が元文四年(1739)を表す「大小詰」であることが判り、享保説は根本から覆ってしまった。

これで『妙案』が刊行されたのは『図巧』より後だと思い込んでしまった。
なぜなら享保年間が看寿の活躍した時代だと理解していたからだ。

よく考えると『図巧』が刊行されたのは宝暦5年(1755)。
久留島喜内が没したのは1757年だから、普通に考えて看寿よりも久留島が創作した方が先だろう。

因みに伊藤宗看は1761年没。伊藤看寿は1760年没。
久留島が一番早く亡くなったのだ。

というわけで大塚播州氏の「朝霧趣向の元祖は久留島喜内」という記述に至るのである。

そもそも『妙案』も『貼璧』も刊行されていないという可能性が高く、現存するのは手書きのメモだけなのであった。

最新の久留島喜内作品集である谷川浩司『将棋妙案/橘仙貼壁』には上田吉一氏の解題があり、そこではさらに突っ込んだ興味深い言説が述べられている。実に納得できる論だ。是非、購入して読むべきである。

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