石ノ森章太郎が晩年近くのインタビュー記事かなんかで
私の全ての作品のテーマは「愛」だった
という内容の発言をしていた。
石ノ森章太郎は「ミュータント・サブ」「サイボーグ009」「佐武と市捕物控」等々の名作があり、尊敬していたが、この発言にはガッカリさせられた。
この発言は「愛」という言葉が空虚で何の意味もなさない単語であることの証明に過ぎない。
最近は「〇〇力」というのも大増殖している。
学校では力は4種類しかないと学んだ記憶があるのだが……。
詰将棋界では「手筋」という言葉が「愛」や「力」に近しい。
「金頭桂の手筋」のように字面を見ればほぼ理解できるものから「森田手筋」「高木手筋」「名誉手筋」のようにまったく意味のわからないものまですべて「手筋」だ。
内容もさまざまだ。
「金頭桂の手筋」は金の守備力を弱めるために桂馬を捨てることだろうが、あまりにも多くの作品で使用されているために名前がついたというものだろう。
ちなみにT-Baseで「..桂同金」で検索すると4113件マッチする。
よく詰将棋作家が謙遜して「しがない手筋モノを作っています」という場合の「手筋」はこれだ。決して「回収手筋とか桂花手筋とか〇〇手筋と呼ばれるものを専門に作っています」という意味ではない。
「取らず手筋」は比較的新しい用語なので定義がはっきりしている。
詰パラ2015年8月号『夢想の研究2』で若島正が定式化した概念だ。
引用すると
- 盤上にある攻方の駒Aの利きに、受け方の駒Xがある。(つまり、AはXを取れる)
- しかし、攻方はXを取らずに、あえてXを別の枡目に移動させる。
- その後で、AがXの元いた枡目に移動する。その着手は駒取りにならない。
この場合の「手筋」は作家の立場からすると「演出」、解答・鑑賞者の目からすると「捨て味の表現方法の一つ」という意味合いになると思う。
ときどき「この作品は森田手筋といえるか」ということが話題になる。
森田手筋は森田正司作を嚆矢とする手筋だが、狭義とか広義とかまた鈴川さんによるアンピンの方法による分類とか色々見解があるが、筆者は久保さんの次の定義を支持している。
森田手筋は
9.取歩駒の発生×16.取歩駒のアンピン図巧1番は
5.取歩駒の移動×14.取歩駒の利きを通す山田修司作は
9.取歩駒の発生× 5.取歩駒の移動×14.取歩駒の利きを通すだから森田手筋よりも図巧1番に近いということですね。9.取歩駒の発生に目がいきがちですが、確かにその通りだと思います。
— アルチュウ@やる気0 (@boku_ikiron) May 11, 2021
- 取歩駒の発生
- 取歩駒のアンピン
アンピンが必須条件と考えるのは、森田さんが「詰碁の活三三死三三からヒントを得た」という記述を見たことがあるから。
「森田手筋」は筆者は今のところ「物語(ナラティブ)」に分類している。
敵の妙手を逆用する面白さだ。
「この作品は森田手筋といえるか」ということが話題になるのは定義が人により様々だということとは別に、「手筋」を手順における「条件」と混同している方がいるのが原因ではないとみている。
初形条件は分かりやすい。「飛角図式」や「全駒図式」など誰が見ても分かる。
終形条件も同様だ。「清涼詰」「炙り出し曲詰」「純四桂詰」……これも見れば分かる。
因みに「煙詰」は\(初形条件\times 終形条件\)だ。
では手順の条件は……これは「七種合」とか「玉方全手順玉移動」「全手順歩」などあるのだが、これは「手筋」ではない。
これらの手順条件をまとめた用語はなんというのだろう。
どうも海の向こうではタスクと呼ぶらしい。
先日、掲示板で「森田手筋かどうか」「ルントラウフかどうか」という話題があったのだが、いずれもそれはタスクではないから作品評価とは別物という印象だった。
このタスクと似た言葉に、テーマという言葉がある。
筆者は洋物については詳しくないので、先日呑んだときに友人に「タスクとテーマの違いについて」教えを請うた。
ところがお互いに酔っ払っていたせいで、結局、よくわからなかった。(非効率!)
ただ次のような話は覚えている。
「全着手が1つの線駒のライン上の作品をペレのテーマという。ライン上で駒が動くだけならペレのテーマではない」
筆者の理解によると、テーマというのはその作家の追求もしくは追究する創作課題ということのようだ。
それはとても格好いい。
鳥越九郎が「田舎のイ」を作り続けたこと
江口伸治が「飛角図式」を作り続けていること
野村量が類作や同一作に何度泣いても逃げることなく簡素な短手数作品を作り続けていること
そういった行為に尊敬の意味を込めて〇〇のテーマという言葉が作られるのだろうな。
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