詰将棋入門(100) 黒川一郎「やすり」

黒川一郎「やすり」『将棋浪曼集』第2番 詰パラ1951.10

まだまだ古典で知っておくべき詰将棋はたくさんあるのだが、なにしろ筆者自身が勉強不足。
無双は少しは並べたのだが図巧ほどではない。
そこで一気に時代を進めることにする。
といっても筆者が生まれる前の頃の作品。

黒川一郎はロマン派を標榜する趣向作家。その(趣向作家としての)デビュー作である。
ちなみに隣に掲載されていたのは山田修司「死と乙女」だった。

序奏はごく短く4手のみ。

67と引、79玉、69馬、同玉、

ここから左辺へ尻金で追っていく。

68金、79玉、78金、89玉、88金、99玉、
98金、同玉、48龍、同金、97と引、99玉、

48金の質駒を入手し、今度は右辺へ追い戻す。

98金、89玉、88金、79玉、78金、69玉、
68金、59玉、58と、同金、同金、同玉、
57と引、69玉、

58との所で58金でもよい。
駒交換でよく現れる手順前後だ。

68金、59玉、58金、49玉、

この58金で58とでもよいのはちょっと痛いが、これもしかたのない手順前後と言えよう。
ここからメインの捨追趣向が始まる。

48金、同玉、38金、59玉、

この4手が1小節。全部で6回も繰り返す。

58と、同玉、48金、69玉、
68と、同玉、58金、79玉、
78と、同玉、68金、89玉、
88と、同玉、78金、99玉、
98と、同玉、88金、99玉、
98金、89玉、88龍 まで61手詰

収束もなく趣向の終了と同時に終了。
これが当時のアバンギャルド(前衛)だ。妙手ではなく趣向プロットに注目して欲しい。そのためには序奏も収束も邪魔だというわけである。(この方針をさらに先鋭化したのが相馬康幸であるようにみえるが、ちょっと違うような気もする。そこらへんはマニアの話題であろう。)

下は『将棋浪曼集』に掲載されていた写真だ。

キャプションにこうある。「昭和29年頃北原義治氏宅にて前列北原、黒川、後列門脇芳雄、小川悦勇」
長野から東京に引越してきた北原氏の元に度々集まったようだ。巨椋鴻之介もいたとある。
先日、小川氏を小林敏樹さんと一緒に訪問して話を伺ったのだが、かなりのご高齢にも関わらず頭脳明晰、詳しい話はいつか書くこともあるだろうが、とにかく我々とはモノが違うなと思い知らされた経験だった。その小川さんが若くて更にキレキレだった頃、丁々発止とやっていたこの写真のメンバーのもの凄さを少しだけ理解できた様な気がする。

しばらくはこの年代(筆者の一世代上)の作品で有名なものを紹介していくことになるだろう。

さて黒川一郎については利波偉氏の将棋雑記に「黒川一郎研究」という労作がある。
そのなかで本作は「黒川一郎研究77」で紹介されている。

当時の図は早詰(19とが無い図)で、その修正図であるこの図が初めて載ったのが詰パラの1961年8月号らしいのです。

10月号の図に19とがぬけているのは間違いないが、これは誤植が原因で、12月号の結果発表には19とが存在している。選者の土屋氏が常連解答者には葉書で知らせたということが書かれている。
つまり修正図ではなく、原図だったというべきだろう。

では本局は完全かというと、2つ問題点がある。
25手目と31手目の手順前後は解説中にふれたが、実は19手目88と及び21手目78とも成立する。

19手目より
88と、79玉、78と引、69玉、68と寄、59玉、
58と引、同金、同と、同玉、57と引、69玉、
68金、59玉、58金、49玉、48金、同玉、
38金、59玉、58と、同玉、48金、69玉、
68と、同玉、58金、79玉、78と、同玉、
68金、89玉、88金、同玉、78金、99玉、
98と、同玉、88金、99玉、98金、89玉、
88龍 まで61手詰

最後は合流するので手順前後と言えなくもないが、途中手順も変化も変わるので余詰と感じる人も多いだろう。

【修正案】

55とを歩にすれば上の2つの順は消え、ついでに49歩と19とも不要になる。
ちなみに二流作家の筆者がこんな修正案を簡単に作れるのは柿木将棋のお陰だ。道具の進歩というのは恐ろしい。

「詰将棋入門(100) 黒川一郎「やすり」」への2件のフィードバック

    1. パラにでたときは16香でしたが、『将棋浪曼集』では15香でした。理由はわかりません。

      1951年10月号

      1951年12月号

      将棋浪曼集

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