風みどりの詰将棋と関係ない話(20) また幽霊の話

戸越公園に住んでいたときの話。

毎日、車で通勤していた。
今は東京都では自家用車で通勤することは許されていない。
なんでも校舎内に駐車することがいけないのだそうだ。
それで学校の近くに駐車場を借りて車通勤する人もいた。
そのうちそれも禁止された。
万が一事故を起こしたときに信用失墜行為になるからと説明された。
車は生徒指導にも具合が悪くなった生徒を病院に運ぶにもいろいろと有効活用されていたのだが。
ともかくその当時は車で通勤が許されていたのだ。

途中、目黒川のところで往路は右折する。帰路では左折だ。
そこにいつも中年の男の幽霊が立っていた。

もちろんはじめから幽霊が立っていると気づいたわけではない。
しかしみるといつもいる。
はじめは、またあのおじさんいるなと思っていた。
しかし、どうも、いつもいる。
だんだん気になってきて、今日はいるかなと見ると、いる。

朝だったら、ちょうど散歩の時間が私の通勤する時間と一致していると考えることもできる。
しかし、帰りの時間は一定ではない。
なぜいつもいるのだ。同じ場所に。
毎回、同じ場所で同じ格好で。
そうなのだ。
1年中同じ格好である。
ソフト帽をかぶりコートを着てちょっと猫背で川を覗いている。
冬でも、夏でも。朝も昼も夜も。

そのうち、あの人は幽霊なんじゃないかと思うようになった。
もしかしたら、あの場所から目黒川に飛び込んで亡くなった方なんじゃないか。
なんとなく現実感もないし、顔はよく見えないが微動だにしない様子だ。
ただじっと川を眺めている。

そして、そのうち、気にしなくなった。

なにしろ朝は忙しい。
日によっては握り飯を食べたり、新聞を読んだり、髭を剃ったりしなければならない。
(通勤する車の中ではだれもがやっていることだ。一度歯を磨いている人まで見たことがある)
帰りは疲れているし、色々と考え事もしている。幽霊が今日もいるかどうかなどはだんだんどうでもよくなり、そして忘れてしまっていた。

だいたい「いる」というだけの幽霊だ。
満員電車で隣になる見知らぬ他人と変わることはない。
幽霊だからといってなにかをするわけではない。
そもそも、こちらの存在にも気づいているようには見えなかった。

ある日、助手席に同僚を乗せて帰路を走っていた。
ちょうど幽霊のことを思い出して、あの橋の所にいつも幽霊がいるんですよと指さしたら、そこに老婆がうずくまっていた。
あれは本物の人間だ。

車を駐めて話を聞いてみると、疲れてもう歩けないという。
家に帰りたいが、帰る道がわからなくなってしまったらしい。
とりあえず後部座席に座らせて、住所などわからないか話を聞くことを試みるが、どうも要領を得ない。
ちょっと中を見せてもらいますよと断って、大事に背負っていたリュックサックの中をさぐると貯金通帳が入っていた。どうも全財産を持ち歩くタイプのご老人のようだ。
貯金通帳は郵便局のもので、その郵便局はここから3つか4つ先の駅の近くだった。
そんな遠くから歩いてきたのか。
疲れて歩けなくなるのも無理はない。
とりあえず、その駅まで車で送ることにした。
記憶のある風景にあたるかもしれない。
すると駅前に交番がある。
そこ交番にちょうど息子夫婦が相談に来ていた。
案外簡単に片付いて助かった。

そのときは、コートを着た男の幽霊はいなかったようだ。

それから暫くして、今度はいつも通り一人で帰路についていた。
目黒川が近づいてきたとき、そういえばあの幽霊は先日はいなかったな。
そもそも車を停めたことはなかったけれど、もういなくなったんだろうか。
それなら本当は幽霊ではなく、人間だったのかな。
そういったことを考えていた。

ところが、またその男の幽霊はいた。
同じ格好、同じ位置で、川を覗き込んでいる。

そこで車を左折させるのだが、そのとき幽霊が立っている位置は少しの間だけなにかの建築物によって死角になる。

死角を抜けて、もう一度幽霊が立っていた場所を見た。
今度はいなかった。
あれ?さっきは確かにいたのに…と思った瞬間だ。

首が固まって動かせなくなった。
がっちり固まって首を回すことが1ミリもできない。
そして同時に、後部座席に誰かいる濃厚な気配が感じられる。
ルームミラーには何も映っていないが、ミラーからも何かがそこにいるという雰囲気があふれ出してくるのだ。

あの幽霊に乗られてしまった。

姿は見えないが私はそう確信した。
それまでただ立っているだけだったのに突然どうしたというのだ。

車を停めるという選択は思いつかず、私はいつも通りの道を進み続けた。
トンネルを抜け、新幹線の脇を通り、戸越銀座通りに入ってしまった。
あと、1回左折して坂を登り切れば自宅に到着してしまう。

家に持ち込みたくはない。
いつも部屋の隅でじっと立たれていたら気が滅入る。
しかし、どうしたものか。

最後の左折をしたとき、ガチガチに固まっていた首がスッと楽になった。
首が回せるようになった。
そして後部座席のなにものかの存在感も嘘のように消えていた。

助かった。

それから目黒川のところで、その男の姿は見えなくなった。
今まで、一度も見ていない。
ということは、その男の幽霊は戸越銀座のあの十字路のところに引越したのだろうか。
私は無料でタクシーの役割を果たしたのか。

その後、その十字路の所に墓地があることに気づいた。(さっきグーグルマップで見たかぎり、今はもうないようだ)
だからといって整合性のある話が見えてくるわけではないのだが。
そこに知り合いの墓でもあったのだろうか。

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