これまで10回にわたって詰将棋のルール論争について書いてきた。
しばらくお休みをいただいてから第2章 解答審査基準についても書くつもりだが、ちょうど区切りであるのでここでオイラの意見を述べておこうかと思う。
まずはこれらのルール論争全般についてだが……
詰将棋のルール論争は既に解決している
否定的に
……というのがオイラの認識だ。
簡単に言えば、永遠にルール論争は解決しないだろう。
不文律の成文化を目指している
これは民主社会に置いては当然のことだ。
そもそもそうでなければルールを作っても誰も守らなかったら無意味だからだ。
しかし……。
詰将棋はそもそもパズルとしてデザインされていない
出発点が「この終盤の手筋を見て学べ」だったり「この巧い手を見てくれ」だったと考えられる。
すなわち教材だったり物語だったりするのであって、はじめにルールがあるパズルとは異なる。
ゆえに不文律と言っても人によって様々で完全に一致するところは少ない、また時代によって大きく揺れ動く。
一致していない不文律を成文化しようとしても、それは不可能だ。
頭脳明晰な先達らが長い間議論しても決着がついてない
直感的にはこれが証明になっていると思う。
綿貫氏は直接知らないが、山田修司氏や森田正司氏が論争してそれでもその結果が結論とはならない。
川崎弘氏と田宮克哉氏が「詰棋討論」という専用のミニコミ誌で30cm以上も討論したが和解案はついに作れなかった。
全詰連の現規約委員長の金子清志氏も紛れもない天才の一人だ。
そのうち大噴火する時機をうかがっているのかもしれないが……。
詰将棋の世界に入ったときのことを思い出してみよう
そもそもどこにもルールなんて書いてなかった。
オイラがはじめてパラを読んだときもいきなり握り詰とか煙詰、絶連……わからない言葉のオンパレードだ。
どこにも説明なんか書いちゃいない。変長? 曲詰?
少しずつそれらを解明していった。
握り詰って、並べてみると全部使用駒が同じだな…そういう条件をつけた遊びなんだろう。
煙詰は、並べてみたらすぐに分かった。(ちなみに並べたのは「般若」)
こいつは凄い!
体系的に順序立てて学ぶわけではないのだ。
ヒトが言語を習得するのだって同じだ。
多分こんな意味だろうとガンガン丸呑みしていく。
だからこんな話を聞いたときアホじゃ無いかと思った。
ある新聞で懸賞出題された詰将棋の解答を担当者が作意手順以外はすべてバツにした。
作意と違っていたって変同も余詰順を答えてもマルに決まっているじゃないか。この担当者はアホとちゃうか?
ちょっと待て。
アホはお前だ。
パズルの解答だったら正解は一つに決まっているではないか。
詰将棋にどっぷり浸かっていたオイラには世間の常識が分からなくなっていたのだ。
採点に専門家が必要なパズルなんてあるか?
しかも将棋を知っていても採点を任せることが難しい、詰将棋を知悉した人材が必要って……。
そこでこの結論に辿り着く。
このブログでは何度も書いていることだ。(こことか)
詰将棋はパズルではない
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「ある種の論理パズルでは解の一意性が求められる」程度で、
https://en.wikipedia.org/wiki/Puzzle
「解が一意でなければパズルではない」ではなさそうです
新聞の担当者がアホであるというご意見ですか?
懸賞を門外漢に担当させるなら、解が一意なパズルにしよう、詰将棋はそうではないパズルのひとつだというだけです