詰将棋雑談(48) 名言集2

雑談(34)詰将棋名言集の第2弾です。
前回は塩沢雅夫さんのコレクションでしたが、今回はオイラが拾い集めました。

会津正歩—我々はこの目を疑った。駒を握るこの触覚を疑った。夢?否、否、夢ではない!事実だ。まぶしいばかりの事実なのだ!噫、幾久しい夢であったことか!我等の夢見た煙詰が、それ、そこにある!(黒川一郎「落花」解説より)

黒川一郎—詰将棋創作と云う阿片を吸ったとたんに、全身しびれ耽溺する始末となりました。

吉村達也—たしかに、ほとんどの作品を独力で解けるような人には、解説など無用の長物でしょう。しかし、それでは解図能力のある人にしか詰将棋のよさを味わえなくなるわけです。多くの人に詰将棋の面白さを味わってもらうには、やはり作品鑑賞のガイドとなるような解説は絶対不可欠なのです。(『王様殺人事件』より)

柳原裕司—修正する必要はない。このままでいい。不完全でも輝きは失っていない作品も存在するのである。(鶴田康夫1981.6に対して)

首猛夫—以前伊藤正氏に近代性を感じると述べた。それは序奏・趣向(論理)・収束が混然一体となって表現されていると強く感じるからだ。おそらくコンピュータがもっとも苦手とする分野だろう。

加藤俊夫—沢木興道師に、学生がたずねる。「座禅をすると、どんな功徳がありますか」「座禅などやっても、何んにもならん」「何んにもならんのに、なぜやるのですか」「何んにもならんから、やるのだ」座禅を詰将棋と置き換えてみてはどうだろう。(『エンジョイザ詰将棋』より)

松田圭市—私の作品は半分以上がこの9手詰である。一番得意にしていた手数というか、やりたいことをまとめると勝手に9手になるというか。誰しも作家ならそういう手数があるのではないか。その手数が正にその作家の夢の密度なのだと思う。(『すなどけい』より)

高柳敏夫—詰将棋を作るということは、大変難しいことに思えるが、さしたる棋力を必要としないは、私の子供の頃を想い返してもいえると思う。ただ、夢をえがける能力があること。夢を追って、足りないところを補足し、不要なモノは消していく。それだけなのである。(『新感覚詰将棋』より)

若木旅人—「解答者」は「解図者」とは違う。人は色々な動機で解図に取り組むが、解いただけではなくさらに解答を出す人々は、それだけで独自の存在だと思う。だから、誰も、その解答や評釈を完全に否定することはできない。(詰パラ1984.9)

田島秀男—「古時計」についての、実に熱い手紙ももらった。あれには泣けたなぁ。他人の作なのに、あれだけ心を砕いてくれる人たちがいることがわかって、十分救われた。(森田正司追悼文より)

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