詰将棋の歴史を考えるとき、いくつかターニングポイントとなる大事件が起こる。
例えば伊藤看寿の出現だとか、塚田正夫の最長手順説だとか、上田吉一の出現だとか。
1998年の柿木将棋IIIの出現もその一つと言えるだろう。
それまでも脊尾詰があったが、それほど普及はしていなかったように思う。
柿木将棋という、わずか12,800円の
市販ソフトが余詰検出機能を備えたのだ。
使い方も簡単。
2000年に発売された柿木将棋Vでは9,500円と値下げされたのにも関わらず、長編の解図も可能となり、詰将棋の連続実行など詰将棋関連の機能が大幅に強化された。
一気に普及が進んだのも当然だ。(そして今やわずか1,100円で購入できる)
詰将棋の創作過程は激変した。
それまで詰将棋の創作過程の9割以上は余詰の検討だったのではなかろうか。
これ大げさな数字ではないよね?
それが柿木将棋に入力してクリック。
数秒で余詰が検出されてくる。
しかも一遍に複数の余詰順が。
–これがありがたい。
それまでは余詰の修正作業も延々と無駄な作業をしていることも度々あった。
「あれ?苦労してこの余詰なくしたと思ったけど、そもそもこっちで根本的にダメダメじゃん!」
それと比べて、なんという効率化!
いや、まずはスピードアップだ。
妻木先輩には完全検討をしろといわれた。
完全検討–すべての王手に対する分岐をすべて書き出すことだ。
……不肖の弟子なんでやったことはない。
寿命が10倍に伸びたと言ってもいいだろう。
創作意欲旺盛だった若い頃にこのツールがあったら、作品数は10倍以上になっただろうと考えた人もいたかもしれない。
しかし、一方でそれは詰将棋を趣味とするものとして邪道だと柿木将棋を拒否する人達もいた。
(そして、今でもごくごく自然に「それじゃ面白くないだろ」という気持ちで柿木将棋を使わない方々もいる)
柿木将棋を使っての創作など邪道だという主張は、さらにもっと昔にも似たようなことがあったのではないかと考える。
それは更に昔、ミニコミや会合があちこちに生まれてきて、棋友による相互検討が始まったときである。
検討は自分でやるよりも他の目で行なった方が効率が良い。
自分でやる場合はすくなくとも数日間は寝かせないとうまくない。
だから、検討を協力するというのは当時にしてみれば柿木将棋に劣らないスピードアップと精確さの向上であったはずだ。
しかし、それは邪道だという意見があっただろう。
詰将棋は一人で作り上げるもの。
だからこそ価値がある。
そういう人が現代にジャンプしてきて、ネットを利用してグループで創作している光景や、柿木将棋を絨毯爆撃的に活用して詰将棋を掘り出していく光景を見たら、きっとメンタマが飛び出してしまうだろうな。
オイラもそういう誰の子どもかわからない乱婚みたいな創作にはちょっと腰が引ける。
最近、twitterなどで公開されている「絵」のレベルが一昔前と比べて段違いに高い。
オイラも好きになった黒タイツのよむ先生はプロフェッショナルなんだろうが、素人さんの描く絵もなにやら凄い。
だいたい黒タイツの質感やその奥の足の指をどうして表現できてしまうのか想像もつかない。
おそらく、この現象も絵を描くツールの発達と無関係ではないはずだ。
あれをpaintで描ける人はいないだろう。
オイラもPCの画面の縦横比が変わるまではずっとマウスではなくペンタブを使っていた。(今は板タブというらしい)
それが最近のものは筆圧や角度まで精密に検知されてタッチに変化をつけられるらしい。
液タブというものを買ってみたい衝動が起こるが、そんな時間はないと我慢している。
(あ、でもイラレ導入するとしたら必要かな?)
で、アナログで描いている人が「あんなの邪道だ」とか言うのだろうか。やはり。
でもまぁ、結論として言いたいのはこういうことだ。
その人が楽しく遊べるんだったらいいんじゃない?
人の楽しみ方に文句をつける必要はないんじゃないかな。
鰹にマヨネーズかけてみたらうまかったということだってあるかもしれないし。