エロスの謎
キューピットはその矢に「想い」を乗せて神や人の胸を射ることができる。この能力は有名だ。
それでは愛と美の女神ヴィーナスの息子だということはご存じだろうか。
このヴィーナスとキューピットは英語による発音。元はローマ神話のウェヌスそしてクビドだ。そしてローマ神話の神はギリシャ神話の神と同一視されている。ヴィーナスは「泡から生まれた女神」アプロディティがいわば古い名前–元々の名前だ。そしてクビドはギリシャ神話ではエロスという名の神だった。
もちろん今や「エロス」で画像検索してもヒットするのはこの神様ではない。「Erōs」や「Ἔρως」で検索する必要がある。
Wikipediaで「エロース」を引くと出てくるのは下の彫像。
エロースの彫像 ナポリ国立考古博物館
Haiduc – 投稿者自身による作品, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=6835751による
この像がいつの時代の物かは解らないが、おそらく時代と共に若返ってきて、ローマ時代には子どもの姿になったようだ。下はポンペイの壁画。
今では銀座にいるように幼児にまで若返っている。さらにキューピーちゃんは乳児だ。なんだか手塚治虫の「火の鳥–宇宙編」を思い出させるような話だが、エロスは神様だから心配することはないだろう。
ブルフィンチ『ギリシア・ローマ神話』には次のような話がある。
はじめエロスはいつまでたっても子どものままで成人しなかった。アプロディティがテミス(法の女神)に相談すると一人息子なのがいけないという。やがて弟のアンテロス(かなわぬ恋の復讐者/相思の恋の象徴)が生まれると、エロスはたちまち身体も大きくなり、力も増した。
愚考するに、これは若返ってしまったエロスのイメージが先にできてしまって、それを説明するために後付けでつくられた話だろう。可愛い絵に描かれるとキャラクターはますます可愛くなっていくものなのだ。森永製菓のエンジェルだって、とても天使の威厳を備えた存在とは思えない幼児体型をしている。ルシファーだって、もとは天使だったのだが…。
そろそろ本題に入ろう。このままでは「なぜ古代ギリシャの性愛の神が現代日本でマヨネーズを売っているのか」が謎なのかと誤解されてしまう。
Wikipediaを読んでいたら、次のような記述があった。
ヘーシオドスの『神統記』では、カオスやガイア、タルタロスと同じく、世界の始まりから存在した原初神である。崇高で偉大で、どの神よりも卓越した力を持つ神であった。
このテキストをここまで読まれた方なら不要な注釈であろうが、念の為に書いておく。
カオス(混沌)はこの世界の始まりで1つの形のない塊に過ぎないもの。
次に夜と昼が生まれ、次にガイア(大地)が生まれる。
ガイアがウラノス(天)を生む。このウラノスが第1世代の神のトップだ。
このウラノスの末子がクロノスで、親殺しをして権力を握る。このクロノスに同じことを経験させるのが、さらにその子どものゼウスというわけだ。
タルタロスは冥界ハーデースの更にはるか下にある場所。ウラノスがガイアとの最初の子どもキュプロスたちを閉じ込めた場所だ。
そんないわばビックバンからまださほど経っていない—宇宙が晴れあがる前の古い古い時代の神様が、なぜアプロディティの息子で悪戯ばかりしているのか。
何かの間違いだろうと『神統記』を読んでみたら(もちろん日本語訳)、本当にそう書いてあった。
まず最初にカオスが生じた さてつぎに 胸幅広い大地 雪を戴くオリュンポスの頂きに 宮居する八百万の神々の常久に揺ぎない御座なる大地 と 路広の大地の奥底にある曖々たるタルタロス さらに不死の神々のうちでも並びなく美しいエロスが生じたもうた。
この神は四肢の力を萎えさえ 神々と人間ども よろずの者の 胸うちの思慮と考え深い心をうち拉ぐ。
本当だ。しかし、これは納得いかない。まだウラノスも生まれていない時代の話ではないか。
これは何かの間違いではないだろうか。
もう少し『神統記』を読み進むと、数頁後に再びエロスが登場する。
クロノスは、ガイアにウラノスが覆い被さろうとするときに、隠れて待ち伏せをし、すばやく父の陰部を鎌で刈り取り、海原に投げ捨てる。するとそこから白い泡が湧き立ち、ひとりの乙女が生い立った。これが「エロスがつきそい、美しいヒメロス(欲望)がお伴をしたアプロディティ」だとある。
(ボッティチェッリの『ヴィーナスの誕生』には描かれていないが……)
サンドロ・ボッティチェッリ – Adjusted levels from File:Sandro Botticelli – La nascita di Venere – Google Art Project.jpg, originally from Google Art Project. Compression Photoshop level 9., パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=22507491による
宇宙の始まりから存在する原初神のエロスがずっと後の世に愛と美の女神のお伴となる。
これがオイラの悩んだ謎だ。
初めに考えたのは、これは同姓同名の二柱の神様が混じってしまったのではないかということだ。
日本でも大国主命と大黒天が「ダイコクさま」ということで一緒にされたことがあると、どこかの神社かお寺で説明されていたのを読んだことがある。
しかしエロス「Ἔρως」という言葉自体が「ギリシア語で性的な愛や情熱を意味する動詞「ἔραμαι」が普通名詞形に変化、神格化された概念である」というのだから、実は別の神様だったということはないだろう。
ある部族はエロスを宇宙で最初に生まれたまだ分化していない根源的な力だと認識し、ある部族はエロスをもっと卑俗な衝動でありアガペーと対比するべきものだと認識しており、それらの折り合いがつかないまま神話が編成されたということはありうるかもしれない。
エロスがメインで活躍する話は少なく、絶世の美女プシュケーの姿を見せぬ旦那としての登場以外読んだことがない。しかもこの話は、プシュケーが姑のアプロディティにいわゆる嫁いびりをされる部分がメインなのだ。旦那であるエロスは嫁が苛められているのに姿を隠したまま。何とも情けないマザコン夫のような役まわりだ。
この話も想像するにかなり後の時代につけ加えられたものだろう。
やはり色々考えてみると、元々は原初の偉大な神様であったものが、だんだんと色々な話に登場するうちに小さくなっていったというのが正しいように思えてきた。
エロは人間誰でも興味を持つものであり、それだけ人気者なので、矮小化されてしまうのだ。
そういえば先程例に出した大国主命もオイラの認識ではギリシャ神話のクロノスにあたる日本の神様の中では第2世代のトップだったのに、今では出雲で縁結びの仕事をしている。大黒天にいたってはヒンズー教の最高神シヴァの化身であるマハーカーラだったのに、今では米俵の上でニコニコしている始末だ。
諸行無常盛者必衰
かつて権勢を振るった神様もいつかは衰えてしまうということか。
なんだか悲しい結論になってしまった。