AIという言葉が流行っているが

藤井聡太と宗教改革②「神」をめぐって( via. 聳え立つ地平線) より

最近はAIがどういう手を指したか、という研究がすさまじいらしく藤井四段も相当研究しているそうです。それは、これまでの文脈からすれば、「AI=神」の言葉に従う、ということになりましょう。

ただ、AIは恐るべき計算能力で最善手を選ぶことは可能ですが、詰将棋の問題を作ったという話は聞いたことがありません。

AIは全知全能に見えて、実は「創造主」の資格がありません。つまり「神」ではない。

では、誰が「神」なのか。

それは、詰将棋の問題を、それも二十何手詰めなどというプロでも解けない難問を作ってしまえる俺たち人間だ! と藤井四段はじめ詰将棋好きの棋士たちは言っている気がしてなりません。

「将棋」においては「神」に従い、「詰将棋」においては「神」を乗り越え、自分こそが「神」だと高らかに宣言する。

ラジオ焼きという料理をご存知だろうか。

聖石大戦ぶぅぶぅによる著作物 https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=54641963による

ラジオと何の関係もないが、なんかハイカラで新しくて良さそうな言葉が「ラジオ」だからつけられた名前だそうだ。

電子レンジという家電をご存知だろうか。

マイクロ波で加熱するオーブンのことだ。

電子と何の関係もないが、それまであった電気オーブンよりなんか進歩していて新しそうな言葉が「電子」だったのだろう。

電子計算機という言葉も電気計算機で充分だと思う。それじゃ電卓と区別つかないとおっしゃるかもしれない。確かにオーブントースターと電子レンジをまとめて電波レンジと呼ぶようなものだ。しかしいずれにせよ「電子」はただ新しくて進歩的な感じがするという理由で使われているに過ぎないだろう。

いま流行っているのは「AI」だ。
元々の意味は artificial intelligence だから人工的な知性。普通は「人工知能」と翻訳する。

知性や知能の定義は難しいが、普通の感覚では「ヒトのように考える力がある」ことだろう。
だとするとまだ人間はAIを作れているとはいえない。
研究を進めている段階だ。間違っているだろうか。詳しい人、間違っていたら教えてください。(以下の文章も同様)

自動車を発明したからといって「動物を作った」とはいわないだろう。なんでいまだ3歳児程度の知能も作れていないのにあちこちで「AIの評価だと……」なんて話が出てくるのか筆者には理解できない。

現在の将棋局面解析ソフトがどのような仕組みで形勢評価値をだしているのか知らない。
例えば5:95という評価値は何を表しているのだろう。
せいぜいその局面から対戦ソフト同士で100万回対局してみたら一方が5万回勝利し、もう一方が95万回勝利したというようなことではないだろうか。それとももう両者が普通に差したら100%こちらが勝つのだけれど、人間は突然心臓発作を起こして死ぬかもしれないから5%は残しておこうという意味なのだろうか。

本当に知性があるのなら、なぜこのような評価値になるのか理解できるように説明できないとおかしい。「こう考えたからこのような結論に至った」ということだ。本当に知性があって考えたのならどう考えたのか説明できるはず。
絵を描くAIが本当にあるのなら。どのような意図でこのような絵を描いたのか説明できるはずだ。
なんでこの曲が流行し、その場所で犯罪が起こるのか説明できなくては知性とはいえない。

今あちこちでありがたがられている「AI」とやらは、ただ計算をしているだけにしかみえない。すこしも「知性」といったものは感じられないのだが……?おそらく現在のAIは誇大広告に過ぎない。乾電池を超小型常温核融合発電機として売っているようなものだ。

冒頭に引用した文章は某氏からメールで読むように紹介されたものだが、「二十何手詰めなどというプロでも解けない難問」といった文章から察するに、あまりプロ棋士の実力も詰将棋についても詳しい方とは思えない。(この文章が発表された時点では)
しかし参考にはなる。

この文章では「AI=神」であり、創造性を発揮する人間は「神」を乗り越えるということが語られている。

どうも次の二つの素朴な信仰が、これらの文章の基盤にあるように思えるのだ。

  • コンピュータ・科学・魔法・神などへの信仰—困ったことをすべて解決してくれる力の存在
  • 人間存在の神秘性への信仰—人間だけが特別で霊感を得て新しいものを創造することが可能

素朴な信仰とは見知らぬ文章の筆者をディスる気持がないことを示した表現だ。
簡単にいえば迷信である。
どちらも、正しくないと思う。

日本の学習指導要領では「人間の力を超えたものに対する畏敬の念を深める」ように指導することになっている。
その教育の成果か、コンピュータが人間の力を超えた計算力をもっているだけで畏敬の念を覚えてしまう人がいるようだ。でもコンピュータは結局の所、電気を流す道のついたただの石だ。
人間の力を超えたものを敬うのなら、火山を信仰した昔の人や鯨を信仰した人と変わらない。

人間は意識があり、考えることができる。
その主体として霊のような存在を考える信仰は根強い。
でもこないだNHKのテレビ番組を観ていたら、考えているのは脳や大腸の神経網、そして腸内細菌らしい。決して霊ではないようだ。

(「この株を腸内に増やすと詰将棋が得意になります」というトクホの乳酸菌飲料が発売されたら、オイラは買うね)

AIはまだまだ未完成だが、いずれ開発に成功すると思っている。(願わくば筆者の生きているうちに!)
そして本当に知性を持ったAIが完成したら、当然詰将棋だって創作するだろう。
ナメクジだってそのうち進化して知能を持ったら、詰将棋を創るようになるかもしれない。
みんな同じだ。(遥か未来に詰将棋の傑作を創ってくれるかもしれないから、ナメクジを絶滅させないようにしなくては!)

2000字を超したので、今日はここまで!

「AIという言葉が流行っているが」への4件のフィードバック

  1. AI が3歳児程度の知能だと東大生はそれ以下になってしまう、米長邦雄の発言が正しいならば。暗記と計算だけで実は将棋に神秘性は微塵もないということでしょう。

    1. 「将棋に神秘性は微塵もない」ということですが、その通りだと思います。というより単なる盤上のゲームに神秘性を感じる感性をお持ちとは驚きです。
      松田さんは将棋に神性をそして将棋のプロを謂わば神官のような尊敬の念を抱いていらして、それで機械に負けたからプロ棋士を堕ちた偶像のように批判するのですね。少しだけ理解できました。

      1. まあ、そうですね。棋誌に詰将棋が初入選したときは神聖なる将棋に貢献できたと感じたものです。集団ナルシシズムというやつですかね。

  2. 詰将棋もAI に解けるようなものだから、神秘性を感じるのはどうかしているのかも知れません。しかし何故に神秘性を感じるのかの言語化を試みたのが旧版の「すなどけい」なのですが。

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