おいらは次のように考えています。
- 夢自体は画像や音やにおいなどの記憶をランダムに再現しているだけのもの。
- 目を覚ました瞬間に、そのでたらめないくつかの記憶を強引に連続的につなぎ合わせて理解しようとする。
- でも、無理があるからとてつもない流れになってしまう。
なにか参考図書を読んだわけではないので、全然見当違いかもしれませんが。
何がいいたのかというと、「人は物語を必要とする」ということです。
わからないということが不安なんですね。
そこで自分なりに理解して安心するために物語をほしがるわけです。
雷を神話で理解するのも、科学知識で理解するのも本質的にはさほど変わりません。
横道にそれました。話を戻しましょう。
詰将棋の初形が与えられたとき、それをコンピュータが解くときに「物語」は必要ありません。(たぶん今の所)
そこで導かれる作意手順はすべて絶対的な手順であり、他に変化の余地はありません。なぜなら、それが作意手順だからです。
人が詰将棋を解く場合、もしくは鑑賞する場合はそうではありません。
「配置から推理してこの角をここに捨てていく形じゃないかなぁ」
「でも、その為にはこの歩が邪魔だなぁ」
「あぁ、それでここで銀1枚使って、この歩を王さんに取らせておくわけか」
「なるほど、邪魔駒消去か、うまいなぁ」
この「邪魔駒消去」というのが、人が作った物語です。
すべての「~手筋」は作意から人が読み取る物語なのです。
作者が伝えたいのはこの「物語」なのです。
しかし作者の「物語」と解答者・鑑賞者の受け取る「物語」が一致するとは限りません。
優れた作品は素晴らしい「物語」をしっかり解答者・鑑賞者届けます。
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> コンピュータが解くときに「物語」は必要ありません。
これは指し将棋でも言えますね。だからコンピュータより弱くなっても人間が指す意味があるのでしょう。
指し将棋についても言えると思いますが、詰将棋についての言明よりその寿命は短いでしょう。
AIが個性を持って、それぞれの棋風を確立して戦うようになるのも、さほど遠くないような気がします。