好形作ならではの危険—それは同一作の恐怖だ。
同一作でなくても類作の危険率は高い。
詰パラ4月号で伊藤和雄作に対して厳しい意見を書いた。
ちょっと補足しておく。
まずは図面から。
一番古いのが二上九段作。
二上達也 将棋世界1987.12
そして次にでたのが次の妻木貴雄作。
妻木貴雄 近代将棋2006.12
そして最後が詰パラ2010年1月号に発表された伊藤和雄作だ。
伊藤和雄 詰パラ2010.01
奇しくも2手ずつ逆算した格好になっている。
実はまんなかの妻木貴雄作を近代将棋で解説したのが、私だった。
その際はこのように書いた。
詩やメロディが一部似ているからと「盗作騒動」が時折起こる。
故意なのか、それとも偶然の一致か。醜い罵りあいが報道される。
詰将棋は限られた駒と盤面でなす遊びであるから、似たような配置・手順が出現する事も間々ある。
あまり目くじらを立てていては選題もままならなくなるという事情もあるようだ。
短編で駒数の少ない作品の場合など、推敲を尽くしたが故の必然の一致と言いたくなる様なケースさえある。
それゆえか詰将棋では「盗作」という悪意の含意された用語は使わず、「類作」「同一作」といった用語を使う。
それでも先行作があった場合、創作の苦労が水泡に帰するのは同じだ。
2番山腰雅人氏作は三手目以降同一手順作があった。
将棋ジャーナル昭和62年5月号原利和氏作。
また7番妻木貴雄氏作も二手進めた局面が将棋世界昭和62年12月号の二上達也九段作と一致していた。
皆様、御寛恕の程よろしくお願いいたします。
妻木作の付加した2手は明らかに価値ある2手だ。
- 捨て駒である。しかも大駒。
- 初手が絶対でなくなり難解性が増す。
- 13玉の変化で作品に膨らみが増す。
しかし、二上九段がこの逆算に気付かなかったかというと、そんなことはなく気付いていた可能性は少なからずあるとも思えるのだ。
では、なぜ妻木作の形で発表しなかったのか。
考えられる理由としては
- 解答者を増やすために手数を長くしたくなかった。もしくは制限があった。
- 解答者を増やすために、あえて初手は見えやすい手で始めたかった。
などが考えられる。
あえて易しくする場合だってあるということだ。
難しくするだけが能ではない。
今回の場合も、妻木さんが伊藤和雄作の図面を考慮した可能性はやはり少なからずあると思う。
そして、駒取りの2手を入れる価値はないと判断したという可能性だ。
初手21角が11玉で切れると見きれる人にとっては、23金は必然手。
ならば、あえて駒取りから始める理由は形式美以外にない。
その形式美をどの程度評価するかという価値観の問題だ。
そういったわけで、次のような記述になった。
おいらの感覚では新作としての発表は厳しいと思う。
サロンでの紹介やアンデパンダンでの出題がふさわしいのではないか。
ただ、これは勿論、事前に類作に気がついた場合の話で、いわば仮想の話であります。
さらに蛇足。
詰将棋にあまり詳しくない方のために付け加えておきますと、妻木貴雄さんも伊藤和雄さんもともに実力も実績も豊富な方で、これらの作品は偶然の一致だということは前提での議論でした。