第1部 脳についての新しい理解が面白いのだが難しかった。もう少しでいいからイメージをしやすくするための図があったらありがたいのに。
第2部 機械の知能、第3部 人間の知能はすらすら読める。
『三体』の劉慈欣はこの宇宙は暗黒森林だと書いていたが、ホーキンスの意見はそれとは異なるようだ。
現代のAIに知能はないという所見は、とっても嬉しい。
最近は普通に「コンピュータで計算した結果」というのを「AIが計算した結果」と言い換えたりする。
「ラジオ焼き」とか「電子レンジ」と同じ類いで、“なんとなく新しい”の意味でいまは「AI」が使われているだけなんだけど。
なにより驚いたのは著者の経歴だ。
脳の研究をするために、まず携帯端末の会社を作って金を儲けて、それで研究所を設立したという。
なんという実行力とそれをささえる知力であることか。
将棋はAI に指せるようなものというと、やたら怒る人がかつていたが今はどうか?将棋は伝統文化ではなく3S政策の一種と思うのですが。
『ポストモダンの共産主義』という本が面白かったです。
将棋には高度なイデオロギー戦略があると思うんですよね。
『あの人はなぜあなたを疲れさせるのか』という本が面白かったです。
チェスのようなゼロサムゲームでは自分の意図を悟られにくくするほうが有利だが、繰り返し型の囚人のジレンマではその反対で、自分のやり方を相手に理解させ、一緒につき合わせることが有効だ。実社会でのやり取りも後者に近い。
『残酷すぎる成功法則』エリック・バーガー
『嫌われる勇気』はぜひ一度は読んでください。
この本は私も読みました。でも残念ながら何の印象も残っていません。
私には能力があること、人々は私の仲間であること。
これが心理面の目標で
自立すること、社会と調和して暮らすこと
これが行動面の目標。
これが『嫌われる勇気』のキモです。
当たり前のことかもしれませんが、私にはなかなかできていないことです。
この世にはふたつの人間の種族がいる、いや、ふたつの種族しかいない、まともな人間とまともではない人間と、ということを。このふたつの「種族」はどこにでもいる。どんな集団にも入りこみ、紛れこんでいる。まともな人間だけの集団も、まともではない人間だけの集団もない。したがって、どんな集団も「純血」ではない。監視者のなかにも、まともな人間もいたのだから。
『夜と霧』(心理学者、強制収容所を体験する)
ヴィクトール・E・フランクル
この本は名著という評判です。
この本は私も大昔に読みました。
でも残念ながら、内容を忘れてしまいました。捜せばまだ何処かにアルカナ。
『イヤな気持ちを消す技術』私のような人生の迷路にはまりがちな人にはよく効くと言われている本です。
「道徳」はそれ自体としては人間社会に必要不可欠なものである。しかし、それはある場合徐々に「うさんくさい」ものになり、また徐々に「危険なもの」になる。どういう場合にか。「ルサンチマン」によって道徳の「自然性」が反転し、内向し、そして現世を超えたある「絶対性」と結びつくときである。そうニーチェは言う。
そもそもルサンチマンとは、感情を反芻すること、を意味する。つまり、「辛かったことにいつまでもこだわること」、「こんなに自分を苦しめた奴は誰だ」と、いつまでも恨みに思うことである。だからルサンチマン人間は、「あいつは力がある、したがってあいつは悪い」と考える。同様に彼は、「あいつは自分のことばかり考える、この力のない私たちのことはちっとも考えない、だからあいつは悪い」と考える。こうして、「他人のことを考える人間だけが正しい人間である」という「反自然」的思考が生み出されることになる。
ルサンチマンを持たない人間は、現実の矛盾をいったん認めた上で、自分の力において可能な目標を立て、あくまで現実を動かすことを意欲する。しかしルサンチマンを抱いた人間は、現実の矛盾を直視したくないために、願望と不満の中で現実を呪詛しこれを心の内で否認することに情熱を燃やす。こうして彼は、動かしがたい現実を前にして「敵は悪い」という価値評価を作り、さらにまた「汝の敵を愛せよ」という反転した道徳を生み出す。そしてそれはやがて、どこかに「本当の世界」があるはずだという「信仰」に至りつくことになる。
『ニーチェ入門』竹田青嗣
将棋は何が面白いのか冷静に考えると分からないんだよな。定跡をたどる書道的な稽古事という側面と勝負という支配欲を満たす側面が実は強いと思う。学術的な発見とか芸術性とかもあるかも知れないけど、よく分からない。結局棋士とか上級者が認めてくれる宗教的な幸福感があったのかも知れないけど、コンピューターが強いと言うことは神(棋士)は死んだという認識でニーチェを読むのが筋が通っていると思うけどな。
『マックス・ウェーバーを読む』ニーチェも勉強になるが、世の中はキリスト教で出来ているので。
【思いやりの心理】
つきあっていい人、つきあってはいけないひとーはじめに
…より
『不幸な人は、自分をさらに苦しめる人の期待に応えようと必死の努力をする。自分の生きている意味を奪うような人の期待にこたえようと頑張る。そして、自分を幸福にしてくれる人の愛を逆に無視する。自分を傷つける人に迎合し、自分を大切にしてくれる人を攻撃する』
…例えば、親が未熟で人間性に問題がある場合、それでも生きていくために、子は必死で親の期待に応えようとする。或いは親以外でも、自分にとって重要な立ち位置…その人から見放されることが怖い…にいる人の期待に応えようとする。
その価値観を内面化し、客観視することが出来ないと、生き延びるために内面化した「その価値観」を刺激するものに執着し、道を誤る。
自分を大切にしてくれる人を攻撃するのは、洗脳された状態を解こうしてくれる人に対し、「自分の信念を否定された」と感じることに似ているのではないだろうか?
「日本では対等な関係というものがなかなかみられない。人間関係にはどこかに上下関係が付きまとっていて、言い換えてみれば、『世話をする』ほうと『世話になる』ほうの二つに分かれやすい」
「自分自身で自分の面倒を見ようということがほとんどないのだ。私たちは日常、『よろしくお願いします』とか『ご面倒をおかけして』といったことを、あまり深く気に掛けることもなく口にするが、極めて日本的な表現である」
「『お世話になる』ということは、ある部分について、自分を相手にゆだねてしまうことである。」「うっかりすると、自分を個人として大事にしないということに通じることになる。」
「日本人は自分を守ろうともせずに、妙に他人を信用してしまう甘さがある。そして何かあった時に自分の期待通りにいかないと、自分の方で物事をあいまいにしてきたことを忘れて相手をなじることをする。だが、これは自立しようとしてこなかったことに対する、しっぺ返しなのだ」
以上の文章は、先日亡くなられた、加瀬英明氏の「個性の時代」(講談社文庫)からの引用です。いわゆる保守派、愛国者として認識されている加瀬氏が、三島由紀夫への根源的な批判者であり、いわゆる日本的美意識に対し、しばしば疑問を呈していたことはもっと知られていいことでしょう。保守派とされる人たちの間の様々な思想的立ち位置の違い、それは誰が正しいということではなく、その違いをきちんと認識することこそ、日本の保守思想の豊かさと広がりを学ぶことにつながります
松田さま
このコメントの量でしたら、やはりご自身でブログを立ち上げて、エントリーをあげたらtwitterで宣伝するということをお勧めします。(つまりこのつみき書店ブログがやっていることですね)
このブログはサーバーを借りて運営していますが、無料で使えるところもいくつもありますのでご検討ください。
Facebookでやっているのですが、イマイチ世間に広まっていないと感じこのブログに投稿しました。
何とかして将棋の世界の危険性を伝えたいのですが。
このブログは詰将棋の楽しさを広めるのが目的ですので、その趣旨にあったコメントなら歓迎ですが……。
FaceBookは私もアカはもっていますが今やブックマークもしていません。やはりブログと最近先行きが不安ですがtwitterの併用をお勧めします。