若島正『盤上のラビリンス』に「詰将棋の作り方」というコラムがある。
概略を紹介しよう。
著者は川崎紀夫君という中学生から3つの質問をもらう。
- 詰将棋はどのような順序で作っていけばいいのでしょうか。
- 作るときの注意点などがあるのでしょうか。
- 作り方のポイントがあったら教えてください。
この質問に対し、筆者は(正直に)答える。
- 詰将棋は、前から作ることもあるし、後ろから作ることもあるし、まんなかから作ることもある。
- 作るときの注意点はない。
- 作り方のポイントはない。
コドモ扱いしないのは素晴らしいが、これではラジオ電話相談の仕事は来ないのではないかと心配してしまう。
しかし、一度ガッカリさせておいてから盛り上げていくのは、文章を書く際のテクニックなのだろう。
ここから本題に入っていく。
引用する。
しかし、詰将棋を作ろうとする前に、考えておくことがいくつかある。
その第一は、なぜ詰将棋が作りたいのか?
この問いに対する満点の解答が、川崎君の手紙の中に既にあるという。
「すばらしい作品を見て、自分もこういう詰将棋が作れたらいいなあと思う」
詰将棋を見て感動できるということは、まさしく詰将棋を作る資格ができたということにほかならない。
そして次の問題は、盤に向かってもなにも作れないのはなぜかと言うことだ。
それは「何を作りたいか」がわからないからだ。作っている本人に「何を作りたいか」がわかっていなければ、それを解く側にも「作者は何を作りたかったのか」が伝わらない。詰将棋がコミュニケーションである限り、こうした作者の側の創作意図は絶対の必要条件だ。
「詰将棋はコミュニケーションだ」というキーセンテンスが登場した。
「パズルではなく芸術だ」というより伝わるかもしれない。
これパクらせていただこう。
実際に発表されている詰将棋の中には「これ、何が言いたいんだろう?」というのもあるが、それは作家の力が足りないか鑑賞者の力が足りないか、その両方かということだろう。
「何を作りたいかは」は、一手の捨駒でもいいし、何手かの手順でもいい。最初の形や、詰めあがりの形でもいい。あるいはまだ言葉でしか表現できないものでもいい。
これらは通常「狙い」という用語で語られるが、オイラはその部分集合としてナラティブという言葉を新しく導入したいと考えている。(といっても、まだこのブログで使っているだけ)
さていよいよ具体的な創作方法である。
その狙いを盤上に実現するには、泳ぎ方をおぼえるときのように、ひたすら水のなかで手足をバタバタさせて自分の身体でおぼえるしかない。そしてその方法は、その人にしか真似のできないものになるのだ。
どうも若島正に水泳を教えた先生はかなりのスパルタ方式だったらしい。
このブログの過去記事にも若島正の創作講座がある。
よかったらそちらもお読みください。
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