詰将棋雑談(12) 歴史に「もし」はないが

小西稔は若くして亡くなられた方。北村研一も若かった。奥薗幸雄もそうだ。

もしこれらの天才作家たちが長生きして詰将棋を続けていたら、いったいどんな素晴らしい詰将棋を作ってくれたのだろう。現代の最新流行に刺激されたらどんな発想を見せてくれるのだろうか。

歴史にもしはない。
彼等が作ったかもしれない名作・傑作は永遠に失われてしまった。

……実は、オイラはそこんところちょっと楽観派です。

ガウスという天才数学者がいた。
森敦は『異説数学者列伝』でガウスについて次のように書いている。

 ところが、彼を「天才」とするなら、彼の存在は「天才産業」にとっての皮肉な結論を与えている。ガウスはその知りえた結果を完成形式において発表するという習癖を持っていて、未完成をさらけだして物議をかもすようなことを嫌った(このことは、ガウス崇拝から追随者を生み、後世に悪影響をもたらした)。それで、その多くの業績は、篋底深く秘められ、あるいは友人だけに私信でほのめかされ、彼の生前には人に知られることがなかった。それで、アーベルやヤコビ、あるいはロバチェフスキやボヤイ、ときには老ルジャンドルが何かを「発見」したとき、ぶつぶつと異議を唱えたり、さりげなく無視したものだ。それで陰険に思われたりもしたのだが、事実たしかにガウスはすでに知っていたのである。つまり、この半世紀ほどの多くの数学者の業績をひとりでまかなえたことになる。
 しかし一方で、この半世紀間の重要な業績がガウスの篋底に見出されたとはいえ、他の数学者によって「発見」されなかったような著しい事実もまた、そこにはなかった。つまり、ガウスなしで数学が半世紀間に発達したぶんだけ、この「天才」は私有していたことになる。それで、人類にとって「天才」なしでも間に合うということを、ガウスの「天才」が証明したことにもなる。

詰将棋業界では説明なしで通る可能性もある話かもしれませんが、念の為長めに引用しました。さらに例え話でダメ押ししておきます。

昔ドイツに、(北原義治みたいに)短篇・中篇・長篇なんでもこいのオールラウンダーの作家がいました。若い頃から天才の名をほしいままにし、老境に入ってもその名声は衰えることを知りません。
しかし(橋本哲みたいに)完全主義者で、自分がこれで完璧だと納得しないとなかなか発表しないんです。
そして困ったことに若い作家が「新構想の作品ができた」と新作を発表すると、「それはわしが若い頃作ったことあるよ」とか「まだまだ練りが足りないな」とテンション下げる発言をするのです。
最初は看寿賞作家がのたまうのだからははぁ~と聞いていますが、徐々に、あんなこと言ってるけど本当に作っているのかよと囁かれるようになります。
やがてその爺さんが亡くなった後、創作ノートを調べてみたら、本当にちゃんと創っていた。嘘ではなかったんだというお話です。

人によっては「やはり天才はいるんだ。凄いねぇ」となるのですが、そこはさすがの森先生、

人類にとって天才は不要

という定理を導くわけです。

天才は一人で一気に研究を進めるかもしれないが、いなくても大勢で時間をかければ大丈夫なんだと。

この定理があるので、オイラは心配していないんです。

北村研一が創ったであろう傑作も、きっと誰か若い人がいつか創るに違いない。
天才が100局の傑作を創ったかもしれないが、100人が1局ずつ傑作を創るに違いない。

アルキメデスなんか1000年くらい時代を先取りしてるんじゃないかと思うんですが、それはキリスト教が詰将棋の発達を邪魔したからだと思うんですね。(詳しい方コメントで補足してください)

だから現代日本ではGHQが将棋を禁止したり、某宗教団体が政権を握ったりさえしなければ、新しい詰将棋は若い人達によって(もしくは年寄もがんばるかも)発展し続けると信じています。

こないだちらっと書いた黒田紀章の馬鋸作品も、実は似たような作品が発表されています。全然違う作者で。(もうオイラの記憶は自分でも信用ならないので詳しくは書きませんが)

若い天才も続々と現れていますし、これからどんな作品が生まれてくるのか楽しみです。
長生きしなくっちゃ。

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