死せる孔明、生ける仲達を走らす?

角建逸 詰パラ1993.9

さて唐突に角さんの作品を紹介したが、実は本日引用したいのは作者の言葉の方なのだ。

作者–4段目に玉方と金がズラリと並んだ、持駒香4枚の奥薗氏作をいじっていた時、25香と歩の2段合を見つけた。元図にちなんで盤面は攻方と金のみにしたかったが、余詰の為うまくいかなかった。

ここで語られている持駒香4の奥薗幸雄作を大学の担当を務めていた青のKKさんが図と作意を紹介している。

奥薗幸雄 ????

余詰多数あり。詳細は棋譜ファイルを確認のこと。

ここでお二人にうかがいたい。この図面はどこから引用されたのですか?

なんでそんなことをと思われるだろうから、事の始まりから書こう。

この図をT-Baseで検索すると「近将1983.5」とでる。
まさかそんなことはあり得ないので空気ラボ同一作検索をかけてみた。

新しい読者のために注釈しておくと、奥薗幸雄は夭折の天才。詰将棋界のガロアみたいな人だ。
200年間空前絶後の最長手数作品と思われていた伊藤看寿の「寿」611手詰の記録を破り、「新扇詰」873手詰を発表した。
しかし1954年に21歳の若さでこの世を去られた。

1983年に近将に投稿できる訳がないのだ。

さて、同一作検索の結果は以下の通り。

  • 作者 鳥越九郎
    発表日付 1966/9/1
    発表媒体 詰パラ (作品No:)
    出典 サロン 1107
  • 作者 奥薗幸雄
    発表日付 1983/5/1
    発表媒体 近代将棋 (作品No: )
    出典 質問箱
  • 作者 奥薗幸雄
    発表日付 1983/8/1
    発表媒体 近代将棋 (作品No:170 )
    出典 詰パラ S41.9

いきなり作者が鳥越九郎と出てくる。(どゆこと?)
2つ目の近将は質問箱へこの作品の作意を問うたもので松田先生が答えている。
3つ目は確認できていないが、出典詰パラS41.9とあるから、結局は1966.9の鳥越九郎作(?)が初出のようだ。

鳥越九郎!「十手詰」や18禁作品で有名な巨頭だ。
こちらも新しい読者のために注釈が必要なのだが……省略させていただく。

その読者サロン(詰パラ1966.9)の投稿をみてみよう。

さて、この投稿を貴方はどう解釈するだろうか?
北海道の鳥越氏の元に九州の奥薗氏の幽霊が出るということが果たしてあり得るのか?

T-Baseはこの投稿を氏一流の冗談と理解し、この作品を鳥越九郎作として登録したということだろうと推測する。

しかし、鳥越九郎氏はご存知のように練達の士。
翌年(1967.10)にまた次のような投稿を読者サロンにしている。(ちなみにこの号の読者サロンは7頁という盛況ぶり。最近の読者サロンは閑散としているがどうしちゃったんだろう)

亡霊が図面をニューっと出して「詰んでますか?」と随分具体的な表現になっている。
ところが、この飛角図式は確かに奥薗幸雄の作品なのだ。

奥薗幸雄 詰棋界1952.9

9手目77角で余詰。T-Baseに収録されているのは余詰順。詳細は棋譜ファイルを確認のこと。

こちらも出自が怪しかったら1966年の図も鳥越作と確信するのだが、流石巨頭の鳥越氏、やることが周到だ。

ガリ版で『奥薗幸雄作品集』を纏められた猪子氏に問い合わせてみたところ、

「王将」誌その他主な雑誌を一通り調べましたが、出典は発見できませんでした。

実はこの図、『古今趣向詰名作選』にも第71番に収録されている。
解説に次のようにある。

本局は奥薗氏の没後、鳥越九郎氏によって紹介されたものだが、このような名作が陽の目を見ることになったのは、我々詰将棋愛好者にとって誠に喜ばしい限りである。

編者代表の森田正司氏は鳥越九郎氏に本当に奥薗幸雄の未発表作だということを確認したのだろうか。
森田氏ならそこら辺はそつがないと信じたいが……編集に関わった詰将棋研究会のメンバーでこの作品に関する経緯を記憶されている方はいらっしゃらないだろうか?
是非、情報を待ちたい。

それにしてもそんな貴重な遺作を没後12年も経ってから「お盆作品」と紹介するものだろうか?
どうか今度のお盆には鳥越九郎氏にあの世から帰ってきていただいて真相を語っていただきたいものである。

さて、読者の皆さんはどう思われますか?


コメントがなかったときのために、多数決もとらせてください。

「死せる孔明、生ける仲達を走らす?」への2件のフィードバック

  1. 「鳥越九郎氏と思う」に一票入れました。
    二十世紀中頃に少し詰将棋をかじった自分は、好きな作家は山本民雄(詰将棋)と鳥越九郎(作文家)だったが、お二人ともにお会いできなかったのは残念至極。
    1964年(?)に東京の旧伊藤家(宗看・看寿・・・)の焼け跡(?)で発見された「イトウ」詰は、実は鳥越九郎氏の作であったようだが、そこからつながっているのかどうか?
    1966年当時のサロン記事をリアルで読んだ記憶があるが、当時の印象は鳥越作であった。飛角図式の記事は紛れを求めたもの???

    1. 翌年にあまり知られていない「詰棋界」発表作を紹介することによって,「それじゃぁ去年の作品も本当に奥園幸雄作なのかな」と思わせたわけですね。

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