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私の詰棋観の50%は山田修司でできている

詰将棋観–すなわち、どのような詰将棋が「良い」詰将棋であると感じるか。
これは、どのように構築されるのであろうか。

それは当然、数多くの詰将棋を解いたり・作ったり・鑑賞したりしているうちに醸成されるものであろう。

100や200の詰将棋を知っているだけでは足りない気がする。もう1桁ぐらい必要か?

ただそのベースは、詰将棋をはじめてから間もない頃に読んだものに大きく影響を受けるのではなかろうか。

してみると私の詰棋観は一番何度も読んだこの本によって基礎が作られたと考えられる。

柏川悦夫「駒と人生」。
実物は所持しておらず、リコピー版だ。

この作品集の解説を書いているのが山田修司。

「無双」と「図巧」も繰り返し読んだ。

しかし、門脇さんの解説は今ひとつしっくりこなかった。
うまく説明できないのだが…。

次に数多く読み返したのは次の作品集だ。

壮棋会(現・創棋会)の作品集だ。

まとめると、私の詰棋観は山田修司が50%。門脇芳雄が20%。壮棋会のオジサマ達が30%。
大雑把に言って、こんな感じで基礎が作られたのだと思う。

その上に、棋友との交流がまた大きく影響を与えるに違いない。

そう考えると、小林敏樹や妻木貴雄が私の脳内にかなり入り込んでいる。

「詰将棋の詩」という同人誌を通して、山本昭一と伊藤正も強烈な詰将棋遺伝子を送り込んでくる。

かくして、山田・門脇・壮棋会の基礎の上に被さるように、小林・妻木・山本・伊藤が層をなしている。

たぶん、そんな感じだろう。

「盤上のフロンティア」や「この詰将棋がすごい!2019」で詰将棋観を醸成する若手は、どんな詰将棋観を育ててくれるのだろう。
楽しみだ。

採用される投稿用紙の書き方

最近、「採用されやすい」投稿用紙の書き方について書くのがはやっているのである。
そこで、オイラも便乗して書くのである。
ただし、オイラはみなさんのように楽しく読ませるために冗談を絡めながら書くのは出来ないのである。
なぜなら、オイラは真面目だからである。
なので、真っ正面から真面目に書くのである。

  • 作意・変化・紛れは丁寧に書く。

担当者も柿木将棋などを利用して余詰検討するが、柿木将棋は変化を最短で詰ますとは限らないのである。
変化に織り込んだ好手を見て貰いたい場合も、当然ちゃんと書かないと見過ごされる危険があるのである。

紛れを丁寧に書くことはもっと重要である。
担当者が仕事で忙しかったりする時、紛れをきちんと書いてない投稿作は
「ん、これ検討に手間かけなくちゃ駄目だな。後回しにしよう」
となることが多いのである。
紛れをきちんと書いてある投稿図を見ると、
「これは作者が丁寧に検討した作品に違いない。安心して撰題できるな」
と感じるわけである。

  • 作者の狙い・感想をちゃんと書く。

ベテラン作家の中には、「この作品の狙いを解説者は理解できるか」試そうと、わざと狙いを書かないで投稿するイヂワルをする人がいるのである。
新人の場合は「生意気だ」と不採用にされるので気をつけた方がいいのである。

昔、詰め将棋カレンダーの選題会議をしていたときに、
「これ捨駒もないし意味わかんない。没だよね」
という作品があったのだが、誰かが
「もしかして、攻方飛車の軌跡が狙いなんじゃない?」
と気付いたお陰で、幸運にも採用になった作品もあるのである。
ちゃんと狙いを書いておけば、こんな危険はなかったのである。

特に新人作家は、ここが狙いで造りましたと正直に書いておく方がよいのである。
もしかすると、担当者から、
「君がここを狙いとして造る気持ちは理解できるが、海千山千の解答者はこの狙いはもう100回も見て飽きているから、こういう方針で仕上げた方がいいよ」
とか、
「こちらの部分は面白いから、こっちを中心に構成しなおしたらいいんじゃね」
とかアドバイスを貰える可能性があるのである。

ところで、すべての投稿作に
「自信作です」
とか
「会心作です」
と書いてくる作家がいるのである。
あまり真似しない方がいいような気がするのである。
(最新作が今までで一番の会心作だという超一流作家がいるので、あり得ないことではないのであるが)

  • 投稿用紙は手書きで情熱を表わす。

作者の作品に込めた情熱を表わすには手書きが一番なのである。
速い話が、次の投稿図を見て貰うのである。

無断で掲載するので名前は一部伏せたのである。

こんな葉書をもらって、採用しない担当者はいないのである。

投稿図を書いていて、もしくは作意を書いていて、あらたな推敲案に気付くことが良くあるのである。
その場合、手書きだと葉書と時間が無駄になるのである。
だからこそ、ワープロやexcelで投稿用紙を作るのが今は主流なのである。

逆に言えば、手書きの投稿用紙は推敲し尽くされた作品の証なのである。

もっとも長編や変化紛れが膨大な作品の投稿用紙を手書きでやるのは無謀なのである。
岡村さんが「驚愕の曠野」の投稿用紙を作るためにつくったソフトがあるそうなので、欲しい人は岡村さんにねだってみるといいのである。
柿木ファイルを入力すると、作意/変化/紛れが書き込まれた投稿用紙をHTMLで出力してくれるのである。

ただし田島秀男さんの投稿用紙は……手書きなのである。
(他にも長編作家で手書き投稿用紙の方はいるのである)

最後に、上の作品を没にする担当者は居ないと書いたが、それはもちろん投稿用紙が綺麗な所為ではないのである。

  • よい作品を創る。

結局は、これなのである。

たとえ投稿用紙が汚かろうが、
「この作品を世に出したい!」
「この作品の解説を俺が書きたい!」
と思わせる作品だったら、採用されるのである。

この文体は疲れるのである。
オチの持っていきかたも真似たつもりなのだが、いかがであろうかである。

将棋世界 2001詰将棋サロン年間優秀作品選考会号

多少ネタバレになりますが、かまわないかな?

  • 最優秀作、いい作品ですね。この初形で○○○が邪魔駒とは見えないものなぁ。
    受賞者の写真や言葉も載っていて、いい感じです。
  • 谷川賞の佐藤和義さん、おめでとうございます。
    佐藤さんとは昨年から仕事の関係で頻繁に顔を合わせる機会が増えたのですが、遠距離電車通勤になったお陰で創作が絶好調。
    連日新作をみせてくれ、毎回悩まされます。大学院の検討協力者の一人でもあります。オイラも嬉しいです。
  • 妻木さん9年連続最多入選ですか。凄いとしかいいようがないですね。
    近将にも毎月だしていたし。そろそろ作品集ですかね。もうすぐ退職したら、ますます活発な創作活動を展開する予定なのかな。
    オマケ:今月の作品、35年くらい前に見せて貰った記憶があります。今月の方が難しかった。ということは姉妹作なのか。それとも改作?ただの勘違いかも。
  • 北浜賞。おめでとうございます。>○○さん
    本当は最優秀作が欲しかったのだろうから、むしろ悔しがっていますか?
    作家の目から見たらまさに理想的な仕上がりの作品ですね。
    作品集も楽しみにしています。

今日の本棚整理

なんでパラをブックバンドで止める必要があるのか、若い人には理解できなかったかもしれない。
次の写真を見て頂ければ判ると思う。

そう、昔のパラは背文字が入っていなかった。
なので、資料を探す為にバックナンバーをひっくり返すのが大変だ。
引用も西暦だったり和暦だったり統一されていないからいちいち換算するのが面倒なので書き込んだ。

それにしても、いままできちんと整理していなかった所為で欠本も多いぞ。
1990年4月号(#410)がどこを探しても見つからない。

パソコン周辺を探してみたら、1976年11月号、12月号、2002年8月号、2006年6月号がでてきた。
あれれ? それじゃ、これらの号も本棚にはなかったのか。
おいらのチェックもイイカゲンだな。

2冊持っているパラもけっこうでてきた。

バックナンバーを買うとき一括で入手したのとか、柳原編集長時代に2冊ずつ購読していたものかなぁ。

今度、詰工房に行けるときに持っていって若い人にあげようかな。
解答選手権のチャリティ(今年もやるの?)という手もあるけど、古いのは作家以外には興味ないだろう。
あ、三百人一局集は昨年だしちゃったんで、もう残ってないです。

さらに、持っている筈のないパラも2冊でてきた。
初めて買ったパラ(これは良く覚えている、鈴木さん表紙が目印)の前の2冊。
もしかしたら、これ、妻木さんに借りた物ではないかなぁ。
としたら、高校2年の時だから、35年ぐらい借りっぱなしという事になる。
妻木先輩、ごめんなさい。

好形作ならではの危険

好形作ならではの危険—それは同一作の恐怖だ。
同一作でなくても類作の危険率は高い。

詰パラ4月号で伊藤和雄作に対して厳しい意見を書いた。
ちょっと補足しておく。

まずは図面から。
一番古いのが二上九段作。

二上達也 将棋世界1987.12

そして次にでたのが次の妻木貴雄作。

妻木貴雄 近代将棋2006.12

そして最後が詰パラ2010年1月号に発表された伊藤和雄作だ。

伊藤和雄 詰パラ2010.01

奇しくも2手ずつ逆算した格好になっている。

実はまんなかの妻木貴雄作を近代将棋で解説したのが、私だった。

その際はこのように書いた。

 詩やメロディが一部似ているからと「盗作騒動」が時折起こる。
故意なのか、それとも偶然の一致か。醜い罵りあいが報道される。

詰将棋は限られた駒と盤面でなす遊びであるから、似たような配置・手順が出現する事も間々ある。
あまり目くじらを立てていては選題もままならなくなるという事情もあるようだ。
短編で駒数の少ない作品の場合など、推敲を尽くしたが故の必然の一致と言いたくなる様なケースさえある。

それゆえか詰将棋では「盗作」という悪意の含意された用語は使わず、「類作」「同一作」といった用語を使う。
それでも先行作があった場合、創作の苦労が水泡に帰するのは同じだ

 2番山腰雅人氏作は三手目以降同一手順作があった。
将棋ジャーナル昭和62年5月号原利和氏作。
また7番妻木貴雄氏作も二手進めた局面が将棋世界昭和62年12月号の二上達也九段作と一致していた。

皆様、御寛恕の程よろしくお願いいたします。

妻木作の付加した2手は明らかに価値ある2手だ。

  • 捨て駒である。しかも大駒。
  • 初手が絶対でなくなり難解性が増す。
  • 13玉の変化で作品に膨らみが増す。

しかし、二上九段がこの逆算に気付かなかったかというと、そんなことはなく気付いていた可能性は少なからずあるとも思えるのだ。
では、なぜ妻木作の形で発表しなかったのか。
考えられる理由としては

  • 解答者を増やすために手数を長くしたくなかった。もしくは制限があった。
  • 解答者を増やすために、あえて初手は見えやすい手で始めたかった。

などが考えられる。
あえて易しくする場合だってあるということだ。
難しくするだけが能ではない。

今回の場合も、妻木さんが伊藤和雄作の図面を考慮した可能性はやはり少なからずあると思う。
そして、駒取りの2手を入れる価値はないと判断したという可能性だ。

初手21角が11玉で切れると見きれる人にとっては、23金は必然手。
ならば、あえて駒取りから始める理由は形式美以外にない。
その形式美をどの程度評価するかという価値観の問題だ。

そういったわけで、次のような記述になった。

おいらの感覚では新作としての発表は厳しいと思う。
サロンでの紹介やアンデパンダンでの出題がふさわしいのではないか。

ただ、これは勿論、事前に類作に気がついた場合の話で、いわば仮想の話であります。

さらに蛇足。
詰将棋にあまり詳しくない方のために付け加えておきますと、妻木貴雄さんも伊藤和雄さんもともに実力も実績も豊富な方で、これらの作品は偶然の一致だということは前提での議論でした。